福岡県市民教育賞

一般社団法人 地域企業連合会 九州連携機構

教育者奨励賞 受賞

筑紫女学園高等学校 校長 中嶋 利昭 氏

I 厥(そ)の猷(みち)を問う

 平成23年4月、不思議なご縁をいただき再び修猷館に復帰した。教諭4年、教頭4年、館長4年、そしてこの1年を含めると13年となる。着任直前に「3.11.東日本大震災」が起きていた。学校現場では何が出来るのか、課せられた使命を強く意識した1年の始まりとなった。
 6月初め、二年生の研修旅行先を信州から東北へと変更する提案を生徒、保護者に行った。性急な変更手続きに対する不満、更には震災後まだ余震も続いている時期、原発事故による放射能汚染で社会全般が過敏になっている時期、全てが複合的に作用し、反対意見の大きな声の中で窮地に追い込まれた。6月末の予備調査では参加希望者は半数を大きく下回った。調査用紙には厳しい意見が多々あり、生徒集団も「参加」「不参加」で大きく割れ、その中で板挟みにあっている教師集団も揺れた。
 しかし、それでも挙げた手を下ろせなかった。「復興の旗を東北の地に掲げる」と、宣言した以上は最後まで貫き通すのが「厥(そ)の猷(みち)」ではないのか、「世のため 人のため」と、事ある毎に語り続けてきたその言葉は単なるレトリック(修辞)なのか。「実施する決意」と「混乱を招いたことへの謝罪」そして「安全への祈り」を込めて頭を丸めた。

II 新たな絆の誕生

 10月、本校職員10名とともに秋休みを使って研修先の下見と研修内容を深めるために宮城を訪れた。全員が年休を出しての自費参加だった。仙台空港周辺の被災地区を目にし言葉を失う者、復興ボランティアに参加して被災住民の心に寄り添った者、それぞれが見て、感じた思いを胸に刻んだ。夜には仙台在住の卒業生と交流を深め、この研修への支援を約束していただいた。「行って、見て、感じること」をまずは教師自身が身をもって示した。11月の最終調査で、参加希望者が8割に達していた。
 一方で12月3日には同窓会の東北支部として「東北修猷会」が設立された。震災のあったこの年に、学校が被災先への研修旅行を企画し、その研修支援を目的に新たな同窓会組織が誕生したのである。お互いに助け、助けられながら人の輪が広がる。その瞬間に立ち会えた喜びは、産みの苦しみが大きかっただけにとても大きなものがあった。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』使い古された諺だが心にしみる言葉である。

III 践み修む

 未だ正月気分が抜けない1月5日、福岡8時発→羽田→(バス)→宮城蔵王到着16時。外は一面白銀の世界、いよいよ研修が始まった。スキー、平泉、被災地訪問、仙台一高との交流、夜は東北修猷会の支援でパネルディスカッション、賛否が渦巻く中での研修旅行であっただけにスキーを除けば全てが手作りであった。生徒自らが主役であり、自らの生き方・在り方を見つめる時と場になった。
 1月8日、暗闇の大地に引かれた一本のライン上を飛行機が福岡空港に静かに滑り降りた。7ヶ月間の長い長い旅路からやっと帰途についた。

VI 後日譚

 私は、この年3月末をもって公務員を定年退職し、4月から私学の筑紫女学園にご縁をいただいた。昨秋、筑紫女学園の生徒、職員50名で甚大な被害を被っている南三陸町(宮城県)に行き、瓦礫の撤去作業を行った。さらに今年の夏は、生徒8名を連れて「フラガールズ甲子園」への参加で福島県いわき市を訪問した。
 「千年に一度の大震災は、千年に一度の学びの場」(「南三陸ホテル観洋」阿部女将の言葉)、被災地東北は若者の「学びの場」である。被災地を通して、若者たちが自らの足下を見つめ、そして、日本人であることを深く自覚する中で、日本という国を担う覚悟へと高め、この混沌とした社会の救済者としてその役割を果たしていくことこそ、教育の目指すべき「厥(そ)の猷(みち)」であると確信をしている。

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筑紫女学園高等学校
校長 中嶋 利昭 氏

昭和26年 福岡県築上町出身
福岡県立豊津高校卒
京都大学理学部卒
昭和50年~ 福岡県公立高等学校数学教諭として採用される
平成18年~平成21年修猷館高校館長
平成22年福岡県教育庁理事
平成23年修猷館高校館長
平成24年~筑紫女学園中学・高等学校校長
【賞罰】
平成23年度 教育者表彰(文部科学大臣表彰)受賞
平成24年度 福岡県市民教育賞受賞